KIBIHA

幾夏のさぶあかうんと

box no.2X

洗い物をしながらいろいろなことを考えていたら、ふっと「日記を書きたい」と思った。しかしその思いは今や、純粋に自分だけが見るノートに今日の記録を残したいということではなく、日記というフォーマットで文章を発表したいという欲望にすり変わっている。そのことは少なからず残念だ、日記を書くこと・書いた日記をひとに見せることという二つの事柄が癒着してしまっている。その二つは自分にとってやはり切り分けて考えたい問題で、そのつながりを曖昧にしていては、そもそもなぜ自分は文章を書くのか・なぜその書いた文章を何らかの形で発表したいと思うのか、という根本の問題を考えることもできなくなる。実はこの問題を提起したひとは自分ではない別のひとなのだが、思いもよらぬところから突きつけられた問いは、確かに踏みしめていたはずの足場をぐらつかせずにはおかない。

折りしも、演劇人の友人と会う機会があり、そのひともまた新たな種をさらりと落としていった。彼は「書いた言葉が読み手に伝わる」という事態が起こりうることそのものが不思議だと言っていた。舞台を終えて受け取る感想のなかには、頓珍漢なものもあるが、一方で何かが伝わっていると感じられるものもあり、それが不思議だと。飲み屋での会話だったから、詳細なニュアンスは思い出せないが、自分はそんな形で受け取った。彼の言わんとすることが、わからないようでわかるような気がしていた。少し気になりながらも「そういうものか」と済ませていたことだったからだ。戯曲とエッセイというジャンルの違いは大きくあると思うが、それでも、自分が思っていたように、少なくとも大筋としてそれほど離れていない形で、自分の書いた言葉が読まれるということは確かに当たり前のことではない。ひとが何かを読むときは、言葉を機械的に辞書の意味に置き換えて読んでいるわけではない、というか、辞書の意味すらも同じように言葉で構成されているわけだから、言語という体系の外に参照できるものは何もない状態で、言葉を使って言葉を読んでいることになる。そのおぼつかなさのことを彼は言いたかったのかもしれないと、こうして書いていて思った。加えて、言葉ひとつひとつに抱く印象やその意味の理解は、読むひとによってそれぞれ異なっていて、その「狂い」が重なれば当然、文章全体から受け取るものが大きく変わってくることにもなる。だからこそ学校の国語では、その「狂い」を矯正されるのだと思うが、自分が独特な言葉遣いを魅力的に感じる人たちは、その人自身の体系のなかでそれぞれのニュアンスや意味を言葉に付与して使っているように見えて、やはりその「狂い」方は、人それぞれの個性でもあるのだろう。そんなことを考えていくと、無邪気に自分の書いたものが伝わると信じられていたことが不思議に思えてくる。それでもやっぱりこうして書いている今も、自分はこの言葉が伝わることをどこか信じていて、そのこともまた不思議だった。「不思議」だなんて、考えを打ち止めするためのクッションに頼っている間は謎は解けないのだが、脳や心は気まぐれなぬか床のようなものだから、とりあえずできるところまで言葉にして漬け直してまた放っておく。