KIBIHA

幾夏のさぶあかうんと

2021

 

どうしても眠れない夜なので4年ぶりにブログを更新する。
少し前から非公開にしていたのだが、いまや何かを書いて「ひっそりと」表に出せるのはこのサイトぐらいだし、特に検索に引っかかるワードも入れていないのでそっと公開に戻した。

性懲りも無く日々繰り返す失言で恥ずかしさが限界になってTwitterワールドから逃げ出してからはや二週間、わりと穏やかな日々を送っている。なぜだかSNS上で自身の内面を考察してしまう悪い癖があり、そもそもそのきっかけになるのはなんとなしに140字のエディターを開いたときだったりするので、それがなくなったというのは精神衛生上よいことだと思う。これまでにも何度も退会を試みたが、寂しさのあまり毎度舞い戻っては黒歴史の量産に励むということを繰り返す結果に終わっている。今回は成功するといいのだが。

しかしこうして短文ではなくまとまった文章でなにごとかを書くというのは実に安心感がある。きちんと推敲したのちに公開せざるをえないから、ひどい感情の吐露や愚痴などを避けることができて、まるで自分が冷静な人間であるかのように錯覚してしまう。それは勘違いだとしても、実際文章の形にしていると考えも整理されてきて、感情はいくらか静まる。同じ長文でも、Twitterのツリーではそういう効果は感じない。全体を見渡して構成を考える、語尾や言葉の重複を直す、そのために何度も読み返すという過程の働きなんだろう。
全く大したことのない、Twitterならひとことで終わるような他愛もない内容ではあっても、ある程度の体裁は整えてから世に出すというのが、何か言葉を伝えようとするときに踏まえるべき作法なのかもしれないと思う。自分はそれがどうしてもTwitterではできなかった。会話をするときも口が先に動いてしまって厳しい。それが文章作成時だけ発動できるモードがあると思うと興味深く、もっと書く機会を増やしたい気がしてくる。




このブログを最後に更新した頃から変わったことを思い出す。文章に関していえば、よりいろんな場面で書く機会があったということだろうか。各種SNSに長々と投稿したり、noteを使ってみたり、はたまた友人と用意したプラットフォームやそのメルマガに綴ったり、そして誘っていただいた同人誌で書かせていただいたり。それまでは半年や一年など時期が空いたこともあったが、去年はプラットフォームの更新のために二ヶ月にひとつは完成させていた。ただ年末ごろからはちょっとしたスランプのようになっていたので、今年になってからはこれが最初の文章になる。というのも、このままではサラミ論文よろしく、同じような切り口で似たような内容のものしか書けないということを悟ったからだった。さらに、圧倒的な読書量の不足が響いて、語彙が足りなくなってしまった。どうにか書いてみても、この気持ちをこんな貧しい言葉でしか表現できないなんて…と悲しくなる始末だった。 最近も諸事情で慣れないillustratorやらwordpressやらに悪戦苦闘していて、読書をする時間は十分にとれていないのだが、今は無性に稲垣足穂が読んでみたい。文学を読めそうな時間がふっと訪れたら、お気に入りの静かな喫茶店に足を運ぼうと思う。