KIBIHA

幾夏のさぶあかうんと

ガッツ

昨日「今年は散歩する一年にしたいんよね」と言ってみて、自分で笑い出してしまった。皆より長く大学にいて、しかも思っきり就活の機を逃しながら、今から散歩て。どんだけ人生遠回りする気やねん。こうして書いてる関西弁の自分はいつも幼い。外側だけ歳とって、化粧も昔よりは上手なったかもしれんけど、中身はそのままで、がっかりすることがある。高校の頃よくしてもらってたお姉さんに借りて読んだ竹久夢二の詩集読んでたら、前読んだときと同じところでいいなって思った。7年も経つのに、ほんまのところは変わらへん、変われへんかった。今日も細野晴臣が中華街でやったライブの映像観てた。初恋の人に体型が似てるな、と思う、いまだに記憶のなかに旧い人が棲んでる。そうやって思い出すだけの人がどんどん増えていったら、その人らに酸素とられて窒息して死んでまいかねん。

人と会うことは怖い。ほんの一瞬、人生の時間が交差しただけやけど、自分に影響を与えてると思う人がたくさんいる。同じように、自分も相手に何らか作用してるところがあるんやとしたら、と思うと。ずっと布団にくるまってたくなる。やのに、いつも自分はそこに目を瞑って嬉々として人と関わってしまう。自分は相手から影響を受けとるつもり満々やのに、自分は雑魚やから大して人に影響なんか与えんと思い込んでる。それがほんまによくない。関わる以上、自分の言動には責任もたな。そうせんとめっちゃ失礼なこと言っといて「自分の言葉で傷つくなんて思ってなかった」とかなんとか言い訳する無責任なことになってまう。無責任はいやや。でも今までのこと思い返すと無責任のオンパレードみたいな人生やった。そもそも「逃げる」ていうのが責任を負いたくない人のポーズやもん。仕事したくないとか思うのもまさにそういうことで、自分が何か重大なことやらされてそれで責任負うのがたまらなく辛いと思うからで。これまでもいろんなことを始めては辞めた。それが全面的にあかんかったとは思わんけど、明らかにガッツは足りんかったと思う。いや、ガッツて何やねん。

この前、ジム・ジャームッシュの「パーマネント・バケーション」を観た。作品の中には精神障害を持ってる感じの人ばかり出てきて、主人公はそういう人たちと話をしようと頑張る。けど上手くいかず、最後にはニューヨークを出て行ってしまう。それは、他者全般とのディスコミュニケーションの象徴みたいやった。主人公は、家にガールフレンドがおるのに路上で寝起きして、ガールフレンドとおるときもずっと独り言を喋ってる。ガールフレンドと似たような境遇になったものがある身としては少し同情しつつ、あの頃の自分は孤独を知らなすぎたな、と思ったりもした。冒頭のモノローグの中では、孤独をまぎらわすために仕事に没頭するような生き方を俺はしない、みたいなことを言ってる。それは社会という責任が発生する場所に自分を組み入れないことで孤独を維持し続けるという意味なのかな、と思ったけど、違うな。つまり、仕事をやって仕事と責任の関係の中で少なからず人に頼りにされたりしたとしても、なおも変わらない根源的な孤独というものがあるから、はじめから俺はそれを直視し続けるということなんやろう。自分もそういう心持ちになることはあるし、最後には街を出て行った主人公のように生きたいとも思う。けど、仕事をやってる人からしたら、そういう社会に参加しない人っていわゆるフリーライダーとして認識されるんじゃないかと思ったりもする。人々が責任を果たすことで作ってる社会という場で、何の責任もとらず好き勝手にやっている人。一応バイトをしてるとはいえ、未来の社会のために役立つという理由で免罪されているフリーライダー。大学生が白い目で見られる理由が自分は最近までちゃんとわかってなかったけど、今になると、勉強そこそこに親に金を出してもらって好きなことをしている存在というのがどれだけ煙たく恨めしいかが少しわかる気がする。いややなぁと思うけど、社会ってやっぱり仕事をしている人のものなんやろうなとも思ったりする。そこに関わるには、自分も仕事をするしかない。もちろん働けないような状態の人が無理をするのは違うけど、自分はただ甘えてるだけじゃないかなと思っている。だからつまり、ガッツが足りんということで。