KIBIHA

幾夏のさぶあかうんと

10.31

東京に来てはじめてできた友人と、缶の酒を飲みながらぼそぼそと話した。

「どんな人かっていうと、なんというか、散歩をしない人」

そんな言葉で会話したのはいつぶりだ。真っ暗な駐車場で地べたに座ったりして。少し緊張していた。距離を感じた彼が「久しぶりって感じにしたくないんだ、誰と会うときも」と淡々と言った。久しぶりって感じになってしまったのは時間のせいではなかった。変わらずに、かつて大事にしていたものを今も大事にしている彼が、眩しく見えたからだった。彼が大事にしてるものを、自分もかつて大事にしていた。

歩きながら彼が言う、「あのとき食べた飴、コーラ味だったよねとか、そんな些細なこと覚えていたいじゃん」

そうだね、と返す。わかるよ、とも。だけど、大学に入ってすぐの頃に彼と話した小さな出来事の仔細は忘れてしまっていることが多かった。「そうだったっけ」と返して彼の表情がほんの少しだけ変わるたび、棘がささるような気持ちがした。ただ今は、その痛みさえすぐに忘れてしまって、その感触を忠実に思い出すこともできない。

ずいぶん遠くに来てしまった。かつて遠さを感じたときから、さらにまた少し遠くへ。もう前にさしたピンの地点から振り返った「過去」は思い出せない。忘れることと変わることへの意識もがらりと変わって、一昨日まではそのことさえ忘れていた。「あいつはずっと変わらなくて、それが嬉しくもあり苛立ちもした」とつぶやいた一昨日の彼が指す“あいつ”は、一昨日の彼について「あいつは大学に入って変わっちゃったね」と哀しそうに言っていた。もう一年と幾月か前のことだ。

過去に立っていた場所、今あるものがなかった場所、今ないものがあった場所で、彼や昔の恋人と一緒に何かを眺めていた。素敵な時間があって、素敵な世界があった。再開発前の駅前のように不便な場所だったかのように記憶を書き換えるのは、あまりにお粗末すぎた。大事なものが変わって、かつて大事にしていたものは失くした。その変化に気づかなかったことに一昨日気づいた。

鈍感になるってことと強くなるってことはどう違うのだろう。二つの間にきっと差異はあって、でもその差異を客観的に言葉にしようとすれば、またどちらか一方に立ち戻ってしまう気がする。あるひとつの変化について、鋭敏だった感覚が「鈍る」、弱かった人が「強く」なる、という対極の価値判断がなされるそれぞれの並行世界があるように見える。また、対になる形容詞が登場しない、変化を平面上での移動として捉える世界もぼんやり見える。

例えば、変わることを語るとき、ある人は身体の新陳代謝をモデルにして、ある人はOSのバージョンをモデルにする。前者にとっての変化は過去から途切れず続く歴史のように連続的なものとして、後者にとっての変化はパラダイムシフトのように非連続的なものとして受け取られるだろう。そういったいろんな違い。遠い人と話して、それぞれの意見を配置すると、両極をもつスケールが見える。近い人と話しているときは部分的な誤差やマイナーチェンジくらいにしか思わないお互いの差異も、スケール上のどこかの点に位置づけられ、二点間の距離が測れる気がする。ただこのアイデアは、「自分」がある位置に定位されているときだけ可能になると思う。自分を見失うことは、様々な物事を相対化できなくなる、自分と他との距離を測れなくなることなんだろう。「内にこもりたい時期だわ」と表現した彼も、その濃霧地帯に迷い込んでしまっていたのかもしれない。

メジャーを準備する前に、まずは旗を立てる。

旗を立てられない流れ者のまま、牧場主に囲い込まれては逃げ出し彷徨う生き方もできる。ただ、流れ者にならないとしたら、履歴書を参考にする過程は必須だ。自由意志ですら、過去に接続している限り「選択」としてしかありえないこの世では、完全に自由な生き方、完全に自分で選べる生き方なんてのはきっとない。が、だからといって死ぬわけでもない。