KIBIHA

幾夏のさぶあかうんと

あの夢

 

今日はやたらに鼻がツンとする。

ここ最近日常になったばかりの町を歩いていた。作業をするつもりが、どうにも頭が働かないので近所の小さな銭湯を初めて訪れた。番頭さんと声を交わして、湯に浸かる。交互浴は端折ってすぐに洗い場へ向かい、シャワーの蛇口をひねると水が出てきて驚いた。そのくらいに快適な場所にしか行ったことがなかった。今も暖房の効いたチェーン店のカフェでこれを書いている。均質で、安心で、不意が起こらない場所、それはショッピングセンター的だ。自分が地方出身で、イオンモールのたくさんある県で育ったからついついそんなものに引っ張られてしまうのだろうか。特にこの春の帰省ではそういう場所に行く機会が多かった。そして、あの設計ずくの建物のなかには性がないと気づいた。不確定要素としてあらかじめ除去してある。それが一般的な街との一番の違いではないかと思う。東京に出てきてすぐのときは、都会はおろか、人々の生活圏のすぐそばにさえ猥雑な店があるのを見て驚いたものだ。あるときなんかは、ぎっしり詰まった住宅街のど真ん中に宿泊施設があった。セルフヌードを撮るときに使ってみたが、受け付けのおばあちゃんはとても愛想の良い人だった。

そんなことは置いておいて、自分はショッピングセンターのつまらなさが気に入っている。かつては、あのもやもやとした色使いの空間や遠くからずっと聞こえている人々のざわめき、そのなかで区切りもなく流れていく時間が耐え難かった。外部からの刺激を必要としていた年頃の人間には物足りなかった。しかしいまや私自身の感覚がショッピングセンターのようだ。もやのかかった記憶のなかで、遠くから聞こえる昔の友人たちの声をザッピングしながら、意識はひどく弛緩して流れている。鮮やかな刺激などもう長らく感じていない。そんな風な人間がショッピングセンターに行くと、ムードが否が応でも合ってしまうのだった。

おまけにあの場所に性がないことは私を安心させる。自らの住む世界にそういうものが商品として存在することを信じたくなかった。この気持ちは誰かにとって暴力として働きうるだろう。どれだけ切実に涙が出るほどそう思っていても、世界は皆のものだ。万人に通じる論理も前提もないそんな世界で、私はその混沌に耐えられなくてショッピングセンターに逃げ込むのかもしれない。あそこには政治もない。どんな立場の人をも消費という輪っかでつないで、束の間並存させてしまう。激しい対立も分かり合えなさも、天井で回っている大きなファンがかき消していく。私が望むのは、そんな生暖かさのなかでぬくぬくと夢を見るということなのだろうか。大きくて何もかもを覆い隠してしまう毛布にくるまって、私は感じることからただ逃げている。いつか這い出るときがくるのはわかっているのだが。