KIBIHA

幾夏のさぶあかうんと

「目下茫洋」後記

「女性」と口にすることはあっても、「女」という言葉を自身の口で発語したことはこれまでに数回しかない。その言葉にまとわりついたムンと湿った気配が耐えがたかった。それは、できるだけ「傷ついた」という言葉を使わずに心の機微を表現したいという常々の思いとも遠からぬ場所で繋がっている。「傷ついた」という言葉を忌避する理由は思い当たるだけでも複数ある。心は弾力性に富んでいて、そう簡単なことでは跡が残らないと思うから。他人の言葉に侵襲されるようなヤワな人間じゃないから、いや、他人の言葉に大きく作用されうる自分を認めたくないから。それから自分の傷に気を取られて自分も同じ刃物を持っていることを忘れたくない、というより忘れていない自分で居たいから。…見栄だといわれればそれまでかもしれない、実際「傷ついた」という言葉がぴったりくるような日も確かにあって、そんなときはその言葉の内実を考えてみてもどうもぼんやりとして像を結ばない。普段は毛嫌いしているそういう言葉しかあたらないことがもどかしい、と思う元気もない。ひとの心は傷がつくほど柔らかくて脆い、自分も例外ではない。それはなんて悲しいことだろう。「傷つきたくない」と思う、「傷つけられたくない」と言いたくない、そうじゃなくて「傷つかない人になりたい」。そんな理想とは裏腹に、心には人々の無数の言葉がこだまして、折に触れてシュッシュと擦れていく。セルフケアも傷の舐め合いもしなくて済む手のかからないかたい身体で、滲んだ血を舐めるだけでまた歩き出せたらいいのに…。

恨み言じみた書き出しになってしまったが、今回は後記を書こうと思った。内容はさておき、もっぱら方法論の話をしたい。

前回のブログの最後に「脳や心は気まぐれなぬか床のようなものだから、とりあえずできるところまで言葉にして漬け直してまた放っておく。」という一文を書いた。今回のZINEも、まさにそんな風なプロセスを経てできあがった。着手したのは2022年の9月で、本来は3月に出した前作のZINEに入れるつもりで、ぎりぎりまで粘ったがどうしてもまとめ切れなかった。それから日記をやってみたりしていたこともあって、3ヶ月間ほどは書きかけの文章のデータを開かなかった。久しぶりに開いたのは、6月のいつかの行きの通勤電車のなかだったように思う。読み返してみると、混沌としたように見えていた文章も、8割方はできあがっているように見えた。ひっくり返したスノードームの中の小さな砂が、時間が経つと下に積もって落ち着くように、文章も漬けておくと馴染んでいくもののように思う。とはいえ何でも時間が馴染ませてくれるわけではなくて、あくまで馴染んでいない異物の正体を教えてくれるだけだ。電車で立ちながら、iPhoneの小さいキーボードで少し加筆してみたが、納得いかなかったので家に帰ってからパソコンで書き直した。着手してから半年の時間が経っても自分にとってその問題が片付いていないことがわかると、脳と心と文章はまた動き出した。あまりに構成がまとまらないのでブレインストーミングなども挟んで、最後は少し強引な終わり方をしてしまった。今回のZINEはあくまで私論=試論なので、次はパワーアップしたぬか床でもっと美味しい漬物を作らないといけない、と思っている。

文章を書き終えるまでの間、何度でも書いては消してを繰り返す。削除した文言のうち捨てがたいものは、「こぼれ」というフォルダにペーストして置いているのだが、今回でそのフォルダが31個にまで達した。本来の語義とは違うが、「こぼれ」フォルダに入れている削除された文言のことを自分は勝手に「異文」と呼んでいて、最近は最終的に選んだ言葉と同じくらい、それらの異文にも興味がある。自分が書きたいことに対して、少しだけかすっていたり、場合によっては別の角度から完全にフィットしていたり、おそらく厳密には別のものだったり、ほぼ一致しているが何かがずれてしまっていたりするそれらの異文は、一旦は選ばれなかった言葉であるからこそ、自分の考えを本人すらも知らない場所へ連れていく力を持っているように思う。実際、書くことに行き詰まると、一旦はフォルダに入れた「異文」が光って見え出すことがままある。そうなると救い上げて、いわば「正文」として配置しなおすわけだが、それができるようになるのは、その言葉を却下してフォルダに押し込めたときには見えていなかった場所に自分が辿り着いたタイミングなのだと思う。つまり、言葉のほうが書き手の考えを幾分か先取りしていることがあるということだ。今回の文章を書いているときは、必ずしも直線的に前に進んでいるわけではなくて、ぐるぐる歩き回った末に同じ場所に出てくるという、知らない町を歩き回る散歩ではお馴染みのあの迷い方を繰り返していたので、なおのこと「異文」の存在に助けられた。

「異文」というのは文章のログのようなものでもある。それほど長い時間をかけずに書く文章では、溜まっていく「異文」の量も少ない一方で、時間をかければかけるほど生まれてくる「異文」の量も増えていく。書いたものを紙媒体で出すときは特に、たくさんの異文が、文章を裏側から支えてくれていると思うときがある。異文の存在が、書き手としての自分がAやBも考慮した上でCの言葉を選んだことをどこかで証言してくれている気がする。一方で「異文」はあり得たかもしれないAやBの言葉を選んだときの文章のフォルムを仄めかしてもいる。ひとつひとつの言葉を緊密に結びつけていかなければ、AやBの言葉が反乱を始めかねない、と思わされる。もしかしたら、「異文」を残していなければこんな考えをもつこともなかったかもしれない。選ばなかった言葉は全てエディターの上で跡形もなく消去され、選んだ言葉だけが残っていて、書き手自身もその最終形しか見えない、という場合には、自分の選択は唯一無二なものとして感じられるのではないかと思う。そう考えると、やはり書くことと書き方は分かちがたく結びついていて、書き方について語ることもまた、ある意味では書いたことについて語るということになるのではないかと思う。