KIBIHA

幾夏のさぶあかうんと

磯の香る場所

久しく放念していたGoogleドキュメントの中を覗いた。
6年前から貯めてきたさまざまな種類の書類が、時系列も乱れたままにそれぞれフォルダに収められていた。クリックして開くと、書きかけの生々しい断片が溢れ出てきて、慌てて目を閉じた。この構造は私の記憶に似ている。

自己同一性というものがいまいちわからない。
というよりかは、自己像をつないでいくための手掛かりを見つけられないでいる。
毎年、居る場所や付き合う人に変化があって、それに伴って書いている文章の文体やテンションも違っている。文章を置いておく場所も散り散りになっている。noteやTumblrevernoteGoogleドキュメント。今日はそれらを軽く回って、このブログの雰囲気に合うものをいくつか転載してみた。他のサービスの方にこちらを統合することもできたが、やはりこういうSNS形式でない場所が一番据わりが良い。そして何より、いろんな私のなかで、自分が一番気に入っているのはここの私だから、ここにまとめておきたいと思った。
とはいえ2020年はこの「私」は一度も顔を出さなかった。もしくは書き留めそびれて見逃していた。なのでブログのアーカイブを見ても2020だけは記事がひとつもない。正直なところ、もう顔を見ることはないかと思っていた。去年はどんどん一人の暇を過ごすのが苦手になっていった年で、このブログだって意識にのぼることすらなかったから。「私」はわからない。

文章を見回っていると、どこで書くかによって言葉の向きが少しずつ違っていることに気づく。これが日記とSNSならわかりやすそうなものだが、それだけではない、鍵付きにしていたTumblr、noteやTwitterなどで少しずつ違っている。鍵付きのTumblrには一番パーソナルなことを書いているかもしれない。喋るときのようにときおり読み手に目を合わせながら自己の内面を吐露している。noteはお題を作ってやっていたので少し変わってくるが、そこではかなり気取ってキャラを演じていたような気がする。Twitterでは聞こえよがしに言う独り言、自作のプラットフォームでは、朗読のように。そして、このブログの「私」は、いうなれば横顔だ。ときおり私はここに訪れて海を見ながらなにごとか呟いている。その姿を遠くから通行人がちらりと見ることがある、そんな具合の距離感。

とりあえず当面は、この海辺で文章を積んでみようと思う。無理に自身の連続性を編み出す必要もないだろうが、これが私だと言い切れるようなものをつくってみたいような気もして。

また来ます。