KIBIHA

つづしつづらんつづらおり

E collage

 

 

パライソが煙になって哀れみに向かうと

泥が支度を始める

 

鞄の豊かな公園では

インセンティブが音をたて始める

 

遅れてきた顔佳草の香り。

 

糠雨の中では、行灯がマルメロに映る。

帷の雲は、泉路に映えて慕わしい。

 

幌は、褐色のパラノイアを無何有の郷へ漕ぎ戻る。

いずれ笑み割れる睦言の摂理をふまえて、とろりとしたパルスを乗り越える。

 

にべもなくサウダージが薫る。

新しいパノラマを感じて覧ぜば

やがてアントルメもかわる。

 

--------------------------------

 

 

MM ReUnit

 

モスコミュール 何回も 吃音 送ります

 

あたためて モスコミュール

 

あの娘に モスコ 結んで ミュール

 

アーチ そっと モス 擦れないで コミュール 市

 

モ コ ス コ ミ コ 緩い Q ゅ 瑠 珠

 

雨漏る ア ア モ ス コ 染み 許し

 

モスコミュール 点す 木と菰 揺れ有る  

 

模糊を見た 夜 COSMO ミール 湯

 

喪 モ の 葉 菜 田 葉 を 打ち振る 夕

 

 

"じゃ"またね



「ジャ」がついていれば全て好きというわけではないのだけど、好きな言葉に「ジャ」がつくものが多い。

「ジャ」のつく好きな言葉を眺めていると、大まかに分けて4つのイメージが見えてきた。


1. わんぱくな感じ

→例)じゃこ、じゃんけん、ジャンプ、じゃじゃ馬 など

   

2. 悪そうな感じ(「邪悪」と言う言葉の意味から連想される)

→例)ガンジャ、バスジャック、マハラジャ など


3. 響きが美しい感じ

→例)演者、阿闍梨、孔雀、麝香、麻雀 など


4. エッジの効いた感じ

→例)JAL、DALLJUB STEP CLUB(バンド名)、JAM など



「ジャ」のつく言葉全体について書こうかなと思ったけど、

スジャータとか、ジャがついてるのに魅力を感じない言葉もあることとかを考え出したらまとまらなかった。

"JYA"への妙な憧憬は、幼い頃音声として耳にした「暗黒大陸じゃがたら」という怪しげな響きからはじまったようだということを考えると、やっぱりこれは個人的な好みなのかなと思う。


…オチがない感じになってしまったんじゃ仕方がないなぁ。

もっと文章こなれたいです。

若干じゃなくて、もっと。





懐石料理

貰い物の風鈴ひとつと木組みを吊るした自室は、穏やかな闇に包まれていた。

夜、封筒を蛍光灯に照らすと、
折り重ねられた便箋が幾層にも重なって透けていた。
匂い袋の香がつと薫り、糊付けをじりりと剥がすときはひと匙の背徳感がある。
なのに今日は、封留めに押されたほお紅に、なぜか胸が躍らなかった。


愛・おぼえていますか


彼女からの手紙のはじめは、そんな風に綴られていた。
この前観に行ったコンサートで聴いたその曲に、彼女は大変な感銘を受けたようだった。


“おぼえていますか 目と目が合った時を
おぼえていますか 手と手が触れあった時
それははじめての 愛の旅立ちでした”


細い線で、透かした懐紙に丁寧な言葉が掠れていた。
マクロスを観たことない彼女と、観たことのある自分、
音源の中で歌手が歌うその曲と、マクロスのラストシーンで流れるその曲…きっと同じではないのだろう。
すれ違いのイメージがふとよぎる。一度考え出すと、さまざまな思いが雲母の粉のように溶け出していく。
違う文脈、違う出会い方、違う気分、違う背景…、違う経歴、違う年齢、違う人生。もしかすると、これからも…?


手紙は健康を気遣う平易な挨拶で締めくくられていた。
自分は、薄い便箋を畳み直して封筒に戻した。紙がふれあう音が暗い部屋にいやに大きく聞こえた。
ほうじ茶を飲もうと腰を上げた。木の軋む音は自然に寄り添う、海から吹き窓から忍ぶ夜風も然り。
部屋の中へこぼれてくる光が、普段より明るく見えて、身を乗り出してみると、
一生かかっても埋め立てられそうにないほど深く星の河が蕩々と流れていた。
白河夜船の気分でもないので自分は、いかだをかついで、山の手へ繰り出した。

ひとりで砂利道を歩く。
不意に蒸し上がる土の匂いは、昼間の熱と湿りを帯びている。
空の河からは相変わらず光る粉、
「たぶんアイシャドウのラメと一緒に瞳から好意が溢れてしまっていたんだと思う」
彼女の言葉を思い出す。そういう台詞を、真剣な顔つきで言う娘だった。
草葉の陰からは相変わらず牛蛙の鳴き声。
つっかけた草履に小石や砂が入り込むので、幾度か近くの石段に腰を下ろした。

何度目かの休憩で、気付けば草履に紛れるのは玉砂利ばかりになっていた。
普段こちらに歩くと、次第に道はひび割れたコンクリートに変わり、市街地が見えてくる。
高架を照らして霞むオレンジの光、高速道路が遠く鳴る、いつもの郊外…
…その薄めたサワーのような気怠さが、今日は凪いだように肌にふれないのだった。

しかし、そんなことは大したことでもなかった。
蹴る砂の、ざり、ざり、という一定のリズムを耳に心地よく感じながら、涼風に頬の熱を浮かせ、宵闇を歩いていった…


(今回は一旦ここまでです…)

かにかま園

扇子が折れた。去年の夏父がくれた少し高価な扇子だった。

どこかの路地裏、折れた軸を弄びながら向かいのブロック塀を見ていた。

センス、の響きはメンス、と似ている、とか、どうでもいい連関ばかり見つけては、いい気味になってしまう。

「ところでさ、」

誰かが言う。「なんで、何もしてないの?」

「え、だって…」

“しどろもどろの言い訳をする”用のカンニングペーパーすら手元には用意してない。

さっき食べたアイスクリームのカップのふちがもうふやけていた。残りを丁寧に舐めた。暑い。

「ちょっと寝たら」

「うん」

古典的なコテン。

「じゃなくて」

「それは比喩」

じゃばじゃば…と向こうの方から水を流す音が聞こえてくる。

さすがに頭が茹だっている。打ち水とはほど遠い量の水が流れてきた。

「あわわ」

少し混じる塩素の匂い… 水色のサンダルはどこかにいって、爪の半月が綺麗になっていた。


なんでも、失くしてもすぐに取り返せると思い込んでいて、だから、何も大事にできない。

ぎ、と心臓に立つ白羽の矢、そのままもっていかれそうになって、待ったをかけては、ひとつ失う。

「バー食べたとこだけど、どう」

バー食べたのはそっちだけだけどな。

「余裕しゃくしゃく、緑の部分までちゃんと食べます。種は庭に植えます」

「うん。そうしな」

繰り返し再生される架空の縁側の風景。その辺にちらばってるヒマワリの種。

ちぎれては再生を繰り返す雲みたいな、愛情のこもったナンのような、そういう精神性。

皮だけ陽気な瓜の8分の1がどうしようもなく残った。

ずっと見つめていると、この世の理不尽を音叉に打ち付けたようにユウウツが増幅されてぐわんぐわん頭を揺らした。

ユピテルユピテル、虚ろな目で唱えては、すぐに落ちそうな気持ちになる。

「これからどうしようか」

「あ、そのことばは」

一番好きだった。次の想像、あっという間にヨットに乗っていたりするから。

「そうだな…ちょっと神社に行くのはどうか」

「神社でジンジャーエールといこう」

プルタブを引く音。プロージット!


「これからどうしようか」

日が暮れて、もう無邪気な風は吹かない。考えなしに水たまりに飛び込んでも、許してくれない。

神隠しの時間になって、1か0がどっかからか決断を迫る。

「どうしようかなぁ」

玉砂利を擦って古びた長襦袢が通過する。そっと未来を透過する。

「裾をからげればいいのにねぇ。そうだ、唐揚げを食べるというのは」

返事はない。

「大粒岩塩の振ってある牛肉でもいいよ」

さぁ…と小さな石や砂までもが汚れた着物を追う。どうして?

「じゃあ海!海だよ!夏だし、やっぱ特急乗ってどっか行きたいよ。」

大声で叫ぶと、ほら貝に耳を当てたときみたく潮の遠鳴りが聞こえる気さえする。

でも風は砂を巻き上げてどんどん強くなる。

「あ~あ」

宙をあおぐ。扇子が飛ばされていくのが目に入った。

もちろん返事はいつまでもない。



f:id:togano-com:20170712151046j:plain:w250


(すぐに取り戻せると思い込んで取りに行かなかったら取り戻せなくなったものの卑近な例)

東長崎

今週は、5コマも授業に出られなかった。

もう再履の覚悟を決めたに等しい。

一週間で一番楽しみな金曜日なので、かなり学校に行きたかったけど、

けっきょく行けずに家にいた。

 

でも夏の夕方、お風呂上がりに薄着で外に出るのは最高に気持ち良い。

近所でも、どこか温泉旅行に来ているような気分になる。

 

***

 

はぁ~旅行に行きたいなぁ。

そんで縁側で浴衣着ためっちゃ可憐な少女に膝枕してもらいたい。

というよりも、海の近くで花火を見ながらのそういう構図に、憧憬の念が長いことある。

尾崎翠の「初恋」という話を思い出す。

祭りの夜、盆踊りの輪に、綺麗な人を見つけてあとをつけていくと…というあらすじで、

ただ月光と長襦袢が僕に夢を売りつけたのだ。

と締めくくられる短い掌編。とても好き。

 

泊まるなら、「ニュー熱海」みたいな、平易なカタカナのついた名前の旅館がいいな。

(熱海のイメージ) 

ホテルニュー淡路とか、ホテルニュー大倉とか、

ニュー+地名の相性ってなんでこうも絶妙なんだろう。

 

***

 

フィルムカメラの現像を待ちながら、東長崎を散歩した。

同じ沿線に住みながら、特に降りたことはまだない駅だった。

f:id:togano-com:20170624011731j:plain 

踏切のところで建物を眺めてると、なんだかここはよさげだなぁと思った。

ラムネの包み紙みたいな、のどかな色をしている。

 

f:id:togano-com:20170624011803j:plain

 

f:id:togano-com:20170624011753j:plain

歩いていくと、八百屋と肉屋と布団屋と電気屋と各種あって、

それらがちゃんとそこに住む人の生活のために機能している印象だった。

スーパーや薬局もあるけど、チェーンでない独特の雰囲気の名前で、庇の基調色は赤で。

TSUTAYAとかも、どこか一昔前のさびれ感があって、町に馴染んでいた。

 

でも、たまにアジアの香辛料の専門店があったり(外国の人がやっている)

こういうカラフルなシャッターがあったり、アトリエがあったりもする。

f:id:togano-com:20170624011742j:plain

  なんか、湯上がりのテンションのせいもあって、何にでも懐かしさを感じた。 

 

学校帰りのようなセーラー服の女子高生が細い路地に消えたので、あれっと思ったら、

和菓子屋のショーケース越しにお兄さんと話していた。

引き返す時にもう一度通ると、母親と思われる女性と一緒に店の外で立ち話をしていた。

昔読んだ本の中で見たような光景が目の前で展開されていて、胸が少し熱くなる。

地元にはあるようでない類の郷愁があった。

(これはおととしの夏くらいに國定教科書の看板をはじめて生で見て感動した写真) 

f:id:togano-com:20170624023735j:plain

家の中だけでなく、路面にも生きている日常が息づいている、と感じるような、

いい意味で生活感にあふれた町だった。

豆を挽いてる機械を子どもがじっと見てる、

そういう何気ない風景が、ちょっと疲れた心に沁みた。

急行は止まらないけど、次に一人暮らしするならここがいいなぁ。

 

帰り際に野良猫が通ったりして、あまりに「できすぎてる」と思うくらいだった。 

f:id:togano-com:20170624011815j:plain

せっかくなので、今度行った時には祖父がくれたフィルムカメラで写真を撮ろうと思う。