KIBIHA

幾夏のさぶあかうんと

懐石料理

貰い物の風鈴ひとつと木組みを吊るした自室は、穏やかな闇に包まれていた。

夜、封筒を蛍光灯に照らすと、
折り重ねられた便箋が幾層にも重なって透けていた。
匂い袋の香がつと薫り、糊付けをじりりと剥がすときはひと匙の背徳感がある。
なのに今日は、封留めに押されたほお紅に、なぜか胸が躍らなかった。


愛・おぼえていますか


彼女からの手紙のはじめは、そんな風に綴られていた。
この前観に行ったコンサートで聴いたその曲に、彼女は大変な感銘を受けたようだった。


“おぼえていますか 目と目が合った時を
おぼえていますか 手と手が触れあった時
それははじめての 愛の旅立ちでした”


細い線で、透かした懐紙に丁寧な言葉が掠れていた。
マクロスを観たことない彼女と、観たことのある自分、
音源の中で歌手が歌うその曲と、マクロスのラストシーンで流れるその曲…きっと同じではないのだろう。
すれ違いのイメージがふとよぎる。一度考え出すと、さまざまな思いが雲母の粉のように溶け出していく。
違う文脈、違う出会い方、違う気分、違う背景…、違う経歴、違う年齢、違う人生。もしかすると、これからも…?


手紙は健康を気遣う平易な挨拶で締めくくられていた。
自分は、薄い便箋を畳み直して封筒に戻した。紙がふれあう音が暗い部屋にいやに大きく聞こえた。
ほうじ茶を飲もうと腰を上げた。木の軋む音は自然に寄り添う、海から吹き窓から忍ぶ夜風も然り。
部屋の中へこぼれてくる光が、普段より明るく見えて、身を乗り出してみると、
一生かかっても埋め立てられそうにないほど深く星の河が蕩々と流れていた。
白河夜船の気分でもないので自分は、いかだをかついで、山の手へ繰り出した。

ひとりで砂利道を歩く。
不意に蒸し上がる土の匂いは、昼間の熱と湿りを帯びている。
空の河からは相変わらず光る粉、
「たぶんアイシャドウのラメと一緒に瞳から好意が溢れてしまっていたんだと思う」
彼女の言葉を思い出す。そういう台詞を、真剣な顔つきで言う娘だった。
草葉の陰からは相変わらず牛蛙の鳴き声。
つっかけた草履に小石や砂が入り込むので、幾度か近くの石段に腰を下ろした。

何度目かの休憩で、気付けば草履に紛れるのは玉砂利ばかりになっていた。
普段こちらに歩くと、次第に道はひび割れたコンクリートに変わり、市街地が見えてくる。
高架を照らして霞むオレンジの光、高速道路が遠く鳴る、いつもの郊外…
…その薄めたサワーのような気怠さが、今日は凪いだように肌にふれないのだった。

しかし、そんなことは大したことでもなかった。
蹴る砂の、ざり、ざり、という一定のリズムを耳に心地よく感じながら、涼風に頬の熱を浮かせ、宵闇を歩いていった…


(今回は一旦ここまでです…)