KIBIHA

幾夏のさぶあかうんと

fata morgana(ファタ・モルガーナ)

 

楽しくなっちゃったのでまたやってみます。

 

今回は「追風用意」「恙(つつが)」「カオリンパップ」の3つ。

 

 

あの日あの時、英國屋の隅で、胸いっぱいのさよならが言いたかった。

とはいえ、一生懸命ワッフルの全ての編目にシロップをかけていた几帳面な彼女に、他人がかける気の利いた言葉が染み込むすきまは無かったように思う。

俯いた細い首に、盆の窪にぴったり沿って貼られた湿布を、ただただ見つめて、静かに心を痛めることくらいしか、そのときの自分にできそうなことは無かったように思う。

 

歩く辞書は、歩く沈丁花にはならないと、ずっと決めつけていた。

彼女は、散歩に出かければ、花の名前を教えてくれたり、雲の形を教えてくれたりした。

焼き魚をつつけば、DHCの正式名称、部位の名前、きれいな食べ方のレクチャー。

楽しい気分を損ねない、さりげない言い方で、伝えてくれるのだった。

温厚で優しい。そんな無難な第一印象は懇意になりだしてからも変わらなかった。

きまって黒髪をひっつめ、ベージュの鞄を抱えて、薄づきのリップクリームをひと塗りした薄い唇をそっと結んで、いつも待ち合わせ場所で先に待ってくれている。

それは、どこか胸を切なくさせるような、幽かな立ち姿だった。

 

いつか、一緒に湿地帯に出かけた帰り、つるべ落としの夕暮れが迫っていた。

市街地へ戻るバスに乗らなくてはいけない。急く気持ちと木の根と足とがもつれあって、彼女がつっと前のめりになった。「あ、」

間一髪でさし出した手を彼女が握る。タートルネックに包まれた肩が立ち上がると、夜の匂いで満たされた鼻孔を、一縷の香りが颯と通り抜けた。「あ、」

—香水ではなかった。もっと古代的で、自然から生まれた、微かな薫りだった。

何より、彼女から感じたことのないものだった。女性性とでも呼ぶのかもしれない。

大丈夫?うん、ありがとう。定型文みたく交わした声も少し動揺していたと思う。

バスの中で、しきりに深呼吸をした。そのたびにあの幽玄な香を吸った。

思いがけず出逢った彼女のエッセンスを、自分の身体に留めておきたいように思っていた。

 

縁の糸は、片方が弱ると、もう片方も垂れてしまうものらしい。

痩せ細った体に、疲れ切った心に、気付き結い直す機会を失ったら、知らない間に結び目をほどいて、ゆっくり朽ちていくのだと、身をもって知ることになった。

 

「ね、湿布のつるつるしたところってね、カオリンからつくるの、カオリンていい響きよね」

 

いつかの言葉を思い出しながら、彼女がどこかで恙なく暮らしていればと願いながら、あの日の彼女が残した分の英國屋のカモミールティーを今飲んでいる。

 

※「追風用意」とは、すれ違った時にいい香りがするように、衣服にお香を焚きしめておく風習のこと。