KIBIHA

つづしつづらんつづらおり

春のせい


暇はノスタルジアを呼び起こす。
生家が近々取り壊されるので、家まで帰る道すがら・散歩がてらに久しぶりに訪ねた。
かつて、築の古い公団が塗り壁のような様相でいくつも立ち並んでいたその場所に立つと、おかしいほど澄んだ青空が開けていた。そこがすでに取り壊された幾棟の跡地であると気付くのに、少し時間がかかった。それほどに、見慣れていた景色だった。

が、そう思ってみて、全てのものが目まぐるしくできては消えていく自分の住む地域には、もはや馴染みのある景観はないのかもしれないと気付く。自分はそのことがここを故郷とする人々のアイデンティティをぐらつかせる危うさがあると考えているが、そのような呑気な意見は待たれないだろう。

ここ数年を振り返ってみると、駅前にひしめく塾は、何度も場所を変え名を変え教育熱心な家庭を取り込むだけでは飽き足らず、自分の好きだったケーキ店が入居していた風情のある鉄のビルヂングまでも無機質な白い部屋に改造してしまった。長年閉店セールを謳っていた呉服店もついに閉まり、何の店ができても繁盛しない場所は今も改装を繰り返す。幼い頃休日に父と出かけた長閑なスーパーは、いつの間にか駐車場になり、ほどなくしてセレモニーホールへと姿を変えた。(その向かいの家には3年が経つ現在も「葬儀場建設反対!」の看板が掲げられている)また、初期に取り壊された団地の一部は、病院へと建て変わり、大通りの側の眺めはそこだけが妙に白く明るくなった。母校も児童数が減り使われない教室が増えていることは噂に聞いていたし、母園も同じ理由で、幼稚園ではなく認定こども園に移行するという。良い悪いの問題ではないが、自分が住む地域にも例外なく少子高齢化の波が押し寄せていることを否応なく思い知らされる。

しかし、変わったのは町だけではない。
自分もまた、昔の自分では在り得ないのだった。
あんなにも足繁く通った図書館に、今は、読みたいような本が昔ほど見当たらない。
興味の方向や人間性もその頃とは随分変わった。そして、本だけが自分の全てではなくなった。音楽も聴く、絵も見るし、全く新しい人間関係を築いたり、昔は憧れていたはずの激しい時間の流れの中で、堪えきれずに泣いたりしている。

幼い頃の自分にとっては世界の全てだったこの町を、そして自分自身をも、第三者としての冷淡さも携えて見ている・見ることができるようになったこと、それが、一番の変化とも言える。

もしかして、現代に生きる人々は皆、何処に住んでいても、多かれ少なかれ似たような物寂しさを感じていたりするのかな、とふと思う。