KIBIHA

幾夏のさぶあかうんと

堂々巡りはやっぱり目が回るらしい


堂々巡りという言葉は、僧侶が祈祷のために寺のまわりをぐるぐる回り歩いたことに由来するらしい。目が回ることもきっとあっただろう。

果たして自分はこの3年間を最大限に活かせたのだろうか・もっと他にできることがあったのではないだろうか、という、自分の中でもう飽きるほどに幾度となく考えてきたこと。もう結論は出ているはずなのに、轍がくっきり残った思考回路を繰り返したどるように、まさしく堂々巡りの思考が未だに止まらない。むしろ、堂々巡りというよりも迷宮入りといった方がふさわしいかもしれない。
気候が翳った心に追い打ちをかける。木枯らしと一緒に寂しさが身体の隅々にまで忍び込んでくる。氷のように冷たくなる手を持て余しては何かにつけて落ち込んでしまう。寒さがしのげる暖かい家があることや懇意にしてくれる人たちへの感謝も忘れがちになる。
家族が見ているトトロの音声が一段と神経を逆撫でする。

この前古着屋さんで買った洋服を着て外で勉強しよう。
祝日にショッピングに出かけたけど、夢の中で近所に服屋を作るほどに恋い焦がれていたファッションの世界は本当まだまだ自分には遠かった。手も足も出なくて、買いたかったアイテムも見つからず消化不良のまま、用意していた予算を残して帰った。
でも、唯一買ったこの服はとっても可愛い。見れば見るほど気に入ってくる。
Universityと書いてるので、大学で着ると考えるとちょっと笑える。
ルーズな感じが好きなので、最近はメンズにしっくりくることが多い。

 

「足を閉じて座りなさい」への違和感

制服が嫌というよりも、制服によって振る舞いを規定されるように感じることが不服なんだ。主にスカート。スカートを履くと“女性らしく”振る舞うことが暗に強制されているように感じる。だらしなくならないようにするには、椅子では足を閉じた方がいいとされるし、何も気にせずヤンキー座り・三角座りをすることは難しい。木にも登れないし、タイヤ跳びもできない。普段するかどうかは別としても、そのようにアクティブに動くことが制限されているように感じる。いつもスカートの中身を気にして細心の注意を払う必要があるということだ。(もっとも中高と6年も履けばごく自然なことになってしまっているが)それってすごく不自由なことではないかと思う。押し付けられた女性らしさだと感じる。もちろん中にズボンを履き込む人や、はなから気にしない人もいる。でもそれはやはり思い切ったことだと認識されたり、時によっては眉をひそめられることもあるし、何よりその点に恥を感じにくい人しかできないことであって、皆がやる自然なこととはならない。それなりの強制力があるということだ。
制服でいるとすごく臆病になってしまうのは、制服が似合っていないということだけではなく、制服の構造上にそんな風な窮屈さがあるからなんだとふと気付いた。そしてそれはまだまだ自分自身が規定された女性らしさに囚われている証拠なのかもしれない。